六十四話 浅田真央とキム・ヨナ
どうも仕事がらか、盛り上がるフィギャ・スケートについても、「評価」の観点から見てしまいます。少し「領空侵犯」をします。
国際フィギャ・スケートの現在の競技評価方法は素人が見ても分からないような、細分化、複雑化しました。オリンピックをはじめ、国際競技大会においては、評価は必ず客観的、明確でなければなりません。極力、審査員の裁量、鉛筆なめなめ、が入らないことが求められます。国際大会においては、評価の裁量は必ず利権、権力の温床となります。その放置は自らの首を絞め、大会自身の自滅へつながります。これを何としてでも、避けなければなりません。そのために、時間を掛け、評価の精度、客観性を高めてきました。
評価の客観性の向上の方法は評価の技術論からすれば、基本的に二つあります。一つは評価基準を事前に示すこと。二つ目はなぜ、このような採点結果になったか説明がつくことです。その点からすれば、フィギャ・スケートの評価方法は複雑化しましたが、条件を満たしてきたといえます。陸上や球技など他のスポーツ競技とは違い、フィギャ・スケートのような定性的な評価面が強い競技は細分化、複雑化は止むを得ないでしょう。定性的な面で競技するスポーツの宿命といえます。
けれども、評価の精度、客観性を高めれば高めるほど、必ず評価点数と芸術性、我々がフィギャ・スケートに見る魅力のようなものとは乖離します。つまり、競技大会で高得点を取り、優勝を目指すことと、例えば自分が求める芸術性のたぐいを目指すこととは必ずしも一致するとは限らないことを示しています。それは技術レベルが高度になればなるほど、離れて行く可能性があることです。
優勝のための演技を目指すこと、技術を研ぎ澄ますことも大変なレベルを求められることであり、素晴らしいことでしょう。おそらく、ほとんどの選手がそのために切磋琢磨しているに違いありません。得点を上げるためには、得点の高い技を身につけ、得点の上がる構成を研究し、ミスをしないことが求められます。演技中に万が一予期せぬ事態が起きたときには、躊躇せずより高い得点に結びつく演技の修正をしなければなりません。いちかばちかのチャレンジは相手と点数が競っている時に限ります。それが勝つためのセオリーです。キム・ヨナはそれを研ぎ澄ましました。
けれども、それがフィギャ・スケートの全てではありません。われわれが見る魅力の全てでもありません。門外漢の余計なお世話ですが、われらが浅田真央はそんなところに閉じこもらず、浅田真央という可能性にチャレンジして欲しいと個人的には思います。その一つの結果が点数であり順位であると。成熟した日本の観客はそれを見極める、そのぐらいの度量は持っていると。
それにしても、ライバルがいることは羨ましい、素晴らしいことですね。
フィギュア・スケートの評価については自著「はじめての人事考課100問100答」 Q36絶対考課で少し触れています。関心のある方はご一読ください。
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